社長メッセージ

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平成23年3月31日 25回目の結婚記念日 〜最愛の妻から命贈られて〜

今日は、平成23年3月9日。25回目の結婚記念日。まさかこんな形でこの日を迎えようとは…予想もしなかった。

遡って約15年前、それは無呼吸症候群から始まった。体重は100kgを超え、異常な鼾に昼間の異様な眠気。極度の肥満が大きな原因だった。大学時代に激しくスポーツをやっていたせいでそのまま食欲が落ちず、運動不足が大きな原因だと言える。現役時代の体重は70kgに満たない。医師からは不整脈、心房細動、さらに慢性腎不全であると診断された。当時は医者の忠告も聞かず、仕事のせいにして相変わらずの暴飲暴食。慢性腎不全は厄介な病気でその進行を少しでも遅らせる以外に治療方法はないと言う事だった。

これは最愛の妻から腎臓の提供を受け、生体腎移植を受けた私の備忘記録である。

青山学院大学を卒業して私は社会人野球をあきらめ、自分の母校であった四條畷学園高等学校へ商業科の教員として赴任した。当時は女子高で同時に附属中学の野球部のコーチを務めることになった。学生から運良く専任教員に採用されるのは、当時でも稀な事で元々教えることが好きだった私にとって天職ではないかと思えるくらい教員生活を楽しんだ。初めに思った事は働くと言うことが自分の身体にとってこんなに楽な事だと感じたものだ。食生活は相変わらず、毎日がクラブを終えると飲み会三昧。仕事も一生懸命やったつもりだったが、身体はどんどん太っていった。赴任6年間の間に三年生の担任を二度やり、卒業生を送り出した。その二度目の卒業生の一人が妻の直子である。二年生、三年生と二年間担任を持った。成績優秀、それでいてどこかしっかり者の彼女は魅力的な女性だった。卒業後、就職希望だった彼女は内定会社の都合で短大進学を選択し幼児教育の方面に進路を変更した。今思うと就職しておれば彼女には別の人生が待っていたのかも知れない。

子供の頃より親の愛情一杯に育てられた私は順風満帆な生活を送っていた。裸一貫から会社を興した両親。今から考えるとその苦労はいかばかりであったか計り知れない。母は糖尿病を患い透析患者となり64歳、父は脳梗塞から心筋梗塞で67歳という若さで他界した。短大卒業と同時に二十歳で妻と結婚した。両親は男3人の兄弟であったせいもあり直子を特別に可愛がってくれた。新婚生活とは程遠く、同居で病気の両親の世話を本当に良くやってくれた。結婚して2年、親父の身体の自由が利かなくなって私は自分の意思で父の仕事を引き継ぐことを決意した。全くの畑違いの仕事。最初は戸惑いもあった。しかし元々商売人の娘であった妻の協力もあり何度かピンチがあったものの何とか会社を軌道に乗せることができた。わずか身内と10人ほどの社員だったが、妻の目配り気配りのお陰で正式に廃棄物の許認可業者となり厳しい業界事情の中でも発展を続けた。そのうちに二人の弟と多くの人材に恵まれて現在の会社がある。これを是非両親に見てもらいたかった。人一倍働き者の父。負けず嫌いの母。どんなに喜んでくれただろう。それを思うと目頭が熱くなる。

そして何よりも私たち夫婦の幸福は三人の子供に恵まれたことだ。小さい頃はほとんどおじいちゃん子、おばあちゃん子だった。それぞれが自分の目的に向かって素直に成長を続けてくれている。妻が厳しく育ててくれた賜物だと感謝している。おばあちゃんの性格生き写しの長女、育菜。子供の頃からオペラ歌手を目指したが現在はANAの客室乗務員となってこの3月4日に入籍した。結婚式 は今年の7月17日。この日は私の父の命日である。長男の力康。今春、早稲田大学の相撲部を卒業し、福田組へ就職する。高校から親元を離れて茨城県へ相撲留学。全日本準優勝。早稲田大学へ進学し相撲部の主将を務めた。二男忠尚。慶應高校野球部に奇跡的に合格。小学校は相撲で西日本チャンピオン。中学より野球に転向。秋の神宮大会で全国制覇。春の選抜甲子園大会出場、主将を務めた。現在慶應大学野球部。神宮を目指す。まぎれもなく私たち夫婦の宝物だ。亡き両親に孫の活躍を一目見てもらいたかった。本当に悔やまれる。

昨年末の11月18日、いつものように定期診断を受けるため大阪市の医療センターに妻と共に訪れた。実は一週間ほど前から夜に息苦しくて眠れない日が続いていた。診察の結果、慢性腎不全の悪化で肺に水が溜まっている。一刻の猶予もなく緊急入院の診断が下された。すぐに首か足の付け根の動脈から透析治療を行なう必要があるとの事でした。以前より主治医から透析の話を聞き覚悟はしていたものの、いざ宣告を受けるとさすがに そのあとの医師の説明もほとんど耳に入らないほどショックでした。まるで診察室が底なし沼に沈んでいくような感じに思った。人工透析には週三回、4時間〜5時間人工腎臓によって血液浄化を行なう血液透析と腹膜透析がある…。後の説明は耳に入ってこなかった。

その場に同席していた家内が生体腎移植の質問をし、もちろん自分も腎移植の事は知っていたが、まさか自分がその立場に直面しようとは予想もしなかった。医師は「血液型を確認し奥さんの腎臓をよく検査してみないと何とも言えません」との事でした。ただ「奥さんとても健康そうですね。」という事でした。腎臓移植の場合、ドナー(臓器提供者)とレシピエント(臓器を受け取る側)が必要なのは言うまでもない。一般的なドナーを待っていたら一般的に最低15年〜20年はかかるという事だった。したがって現実的には近親者からドナーを探すしかないというのが現実だった。出来れば一生透析治療を受けるより腎移植を選びたい。その時の本音だった。会社に帰って二人の弟にこの件を話すと家内の腎臓が適合しない場合、二人共ドナーになってくれると言うことだった。いくら妻でも兄弟でも自分から進んでは頼めない。

その日に用意をして入院。利尿剤の注射のお陰でおしっこが異常に出て肺の水が抜けて夜も普通に眠れるようになった。そのうちにシャント手術を受けて血液透析の準備にかかった。主治医は北林先生で担当は浜田看護師だった。二人の親切な暖かい言葉に透析宣告を受けて落ち込んでいる私は随分救われた。年末に家の近くの生駒の田中透析センターへ通う事を決めて退院した。田中透析センターへは週三回。朝から軽トラを自分で運転して通った。小学校5年生まで注射嫌いでいつも泣いていた。そんな私が左手に太い針を二本も刺して血液透析を4時間行なう。大阪医療センターと違って永年透析をされている患者さんはテレビを見たり、パソコンをやっている人やら世間話をされている人、様々な人がおられた。最初は若い美人の看護師に手を握ってもらって針を刺していたが、慣れとは恐ろしいものでその苦痛に耐えることが出来るようになった。ここでも多くの看護師に大変お世話になった。私は12月3日に医療センターで透析を始め、退院後、田中透析センターへ2月の14日までそして再び医療センターで手術の前日までの約三ヵ月間、透析治療を行なうこととなった。

年が明けて2月の初旬、主治医の金先生より電話を頂いた。「2月15日に入院できますか。」金先生からは年末の診察室で「あなたは崖に向かって歩いているようなものだ。まさしく死へのカウントダウンが始まっている…」と。

年末より検査を進めていく上で、妻の腎臓の状態がとても良好で二つの腎臓の内、一つを取り除いても影響ないという結論が出た。家内はこの結果をとても喜んでくれましたが私はとても複雑な気持ちになった。本当にこれでよいのか…と。妻の身体を切り裂いて自分を救う。もし私と結婚しなければこんな残酷な事にはならなかったのに…。

入院後、手術前の検査で私はU型糖尿病やら動脈硬化などあらゆる悪い結果が次々と発覚。主治医も手術の決断を考え直すところまで悩ませました。しかし最終結論は手術をしてもらえるという結果になりました。現代医学の進歩と新薬の開発には驚きと感謝以外になかった。

そして年が明けて2月15日に入院。妻が一週間後に入院してこの3月1日に手術を受けました。朝9時に私と妻の兄弟に見送られて夫婦で3階の手術室に向かった。妻は 「お産より大丈夫と」言いながら落ち着いていた。手術室の待合室で看護師に誘導されて手術室に入った。手術台に横になりすぐに点滴が始まった。

次に気がついたときには、看護師から「今からお部屋に帰りますよ。」夕方5時30分頃に病室に帰ったらしい。看護師に「妻はどうですか。」と聞いたのを覚えている。「奥さんも元気です。」の返事に何よりも安堵を覚えた。全身が汗ビッショリで看護師に着替えをさせてもらった。不思議に痛みというよりは何とも言えない気だるさやベッドの上で身の置きどころのない苦しさを感じた。腹から三本の管、首からそして腕からの痛み止めの点滴。指からも何かが。さらにおしっこの管。合計6本の管に繋がれていた。透析治療の時 から左肩のだるさがずっと残っており、術後もまず左肩の異常なだるさを感じた。透析治療の折りには左肩の下に野球のボールを挟んだりした。

隣りの妻の病室に兄弟夫婦や親類縁者が来ていてくれて二人の手術がうまくいったことが雰囲気でわかった。当日の担当であった長谷川看護師には随分迷惑をかけたことだろう。二時間おきのバイタル(呼吸、心拍、血圧など)でほとんど一睡も出来ない状態だった。ベッドから起き上がることも許されず、術後の三日間は本当に苦しかった。看護師との会話も辛くなるほどだった。座ろうとして金先生に「辛抱が足りない」と叱られた事もあった。その後、首の点滴、お腹の管など徐々に浅井先生が取ってくれた。手術して一週間。3月8日におしっこの管と痛み止めの点滴を抜いてもらって本当にすっきりした。同時に14階内での歩行許可も出た。トータルこの一週間の苦しみは近年にないものだった。

手術が終わって金先生から非常に難しい手術であった事を聞かされた。浅井先生には、「奥さんの健康な腎臓のおかげで命拾いをしましたな。」と告げられた。詳細はわからないが私の動脈硬化が検査以上に進んでおり移植した腎臓とつなぐ血管が無く、妻の血管を使って足の方の血管とやっとつなげたということだった。

身体の自由がこんなに有難いものかと実感した。しかしすぐに次の試練がやってきた。腎移植の場合、感染症の予防のため腎臓を常に潤った状態に保つため、日に3リットル位の水を飲んでおしっこを出す。健康な腎臓をもらったせいでおしっこが日に4リットル程出る。昼間は良いとして夜間は1時間〜1時間半おきにおしっこに起きる。実質かなりの睡眠不足となる。テレビやDVDを持ち込んで時間をつぶした。退屈が忍び寄ると言う事は身体が元気になっている証拠ではある。私の場合は糖尿病の関係で食事は普通食にはならなかったが手術前と手術後は病院食の味が変わったように感じた。手術前はなかなか病院食になじめず、半分も食べなかった。

私の移植してもらった腎臓は、普通の人より下の方についているらしい。そのため下半身の内出血がひどく、歩きづらい。若干の右足のしびれもある。

手術が終わって3〜4日がたった血液検査の結果でクレアチニンの値が0.8になったと聞かされた。正常値の範囲内だ。「夢じゃないの!」 手術前は、透析治療の前で11を超えていた。術前の浅井先生の説明でも1.5位まで落ちれば最高だと説明を受けていた。改めて妻の腎臓に感謝の言葉もない。

3月9日。朝から長男の力康が迎えに来て、妻は元気に退院していった。妻に感謝の気持ちを伝えようとしたが、涙がにじんで、それを妻に悟られそうで言葉にならなかった。逆に妻から一通の手紙をもらった。読み返す度に涙がにじむ心温まる内容であった。今は何よりも家内が以前と変わらず元気でいてくれるのが有難かった。

娘の育菜には二人の手術に合わせて休暇を取ってもらった。長男の力康も就職するまでの間、大阪へ戻ってくれた。次男忠尚も練習の合間に帰阪した。かけがえのない家族や親類縁者に支えられてどんなに心強かったことか。

3月11日午後2時46分。東日本大地震。M9.0という過去に経験のないものだ。東北地方を中心に死者・行方不明者が1万人を超える悲惨な惨状となっている。さらに避難民が50万人を超える。連日の報道では日に日に被害が拡大するばかりだ。その日は病院でもかなり揺れた。病棟が14階という事もあり、避難するにしても私も含めて不自由な患者ばかりである。看護師もかなり慌てていた。日を追うごとに福島の原発事故も重なってさらに被害の状況は深刻なものとなった。被害に遭われた皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

3月12日。今日は私の53歳の誕生日だ。多くの人達に支えられて新しい命を吹き込まれた記念すべき二度目の人生の出発点だ。これからも妻の手紙にもあったように自分に関わる全ての人達に感謝しながら生きよう。

その後、順調に回復し、3月23日に腎生検。これは根付けた腎臓に細い針を刺して腎臓の細胞を採取し、その働きを検査するものです。麻酔は多少痛いものの針を刺すのは一瞬で、思ったより痛みは感じなかった。結果は、順調に腎臓が働いているというものであった。同時にこの日に開催が危ぶまれた春の選抜高校野球が始まった。立派な選手宣誓であった。「生かされている命に感謝し…」妙に自分の事に重なって涙が溢れた。

3月28日、膀胱に手術の折りに入れてあるステントを抜いてもらった。今まで経験のない不快感。本当に痛さというより気持ち悪さは何とも表現できない。3〜4回痛みと共に血の塊と真っ赤な色のおしっこが…。だんだん色が普通に戻っていった。金先生が病室に来て下さって、「やることは全てやった。」と告げられた。

翌29日、午前中に12階の透析室にご挨拶に行った。看護師さん始めスタッフの方々も元気そうな自分を見て大層喜んでくれた。注射嫌いでご迷惑をかけました。午後からは三回目の栄養指導。妻と育菜と三人で受けた。退院してからの食生活は重要なポイントである。朝の血液検査の結果で浅井先生から4月1日に退院の許可がおりた。退院後もしばらくは週に2回の通院をしなければならない。金・浅井両先生にはまだまだお世話になる。

夕方、看護師長さんが挨拶に来て下さった。月末に14病棟から配置換えになるらしい。この病棟の看護師さんは看護師長始め、皆親切で随分自分は救われた。本当に有難うございました。

手術前に2週間、術後4週間と3日。合計46日間の入院生活が今終わりを告げようとしている。

                               平成23年3月31日  植田恭平

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